鉄砲組百人隊は始め老中支配であったが寛永の改革の後直参の旗本に統合され幕政を預かる若年寄が直接指揮をとり、その後鉄砲奉行の支配となりました。

鉄砲隊マーク

百人隊編成

組頭     一名     三千石

馬上与力  二十騎   八十石

鉄砲同心  百人     三十俵二人扶持

 

扶持は一日玄米五合ずつで現在の年棒60〜70万円に相当しましうが、これでは生活が大変で、同心は内職をせざるを得なかった。これが大久保のつつじ栽培です。

鉄砲隊は、伊賀組・根来組・青山組・大久保組が江戸鉄砲組として編成されました。当地と所縁の深い鉄砲組の組頭は、久世三四郎広正が寛永十二年より万治三年まで勤めておりました。

この間鉄砲組は組屋敷を与えられ、間口が狭く奥行きの長い武家屋敷に定住することになりました。

鉄砲

 

 

 

 

 

 

 

大久保地区鉄砲隊

  • 同心百人屋敷    
  • 15万2千5百74坪
  • 支配与力4人屋敷  
  • 7千4百92坪
  • 支配与力4人棟場  
  • 4千2百70坪
  • 久世三四郎抱屋敷  
  • 1万3千坪
  • 大筒角場         
  • 8千164坪
  • 長光寺         
  • 1千500坪
  • 組鉄砲角場       
  • 6千560坪

 

 

この武家屋敷は、東西の入口に棚門を設け、木戸番を置き江戸を守る拠点としてそのまま一つの砦に造られました。

木戸札によれば

  • 木戸通行の義者明六つ時より暮六つ時迄ただし歩行のものは五つ迄
  • 馬駕籠打堅く無用
  • 喧嘩口論物騒往来いたすべからず
  • くはえきせる火縄等堅く無用歓進物もらい一切はいるべからず
  • 葬礼断りなく通行いたすべからず

                    以上の如く厳重な取締りをしておりました。

火縄銃

 

 

 

 

鉄砲百人組の通常の勤務は江戸城内の三之門の警備を四組の百人組が交代でしていました。したがって月に4回程度(一昼夜勤務)の勤務でありました。このとき詰めたのが百人番所として皇居東御苑に今も残されています。

この他、将軍の寛永寺、増上寺への参詣の警備などがある。

文久二年(1862年)十二月、250年余り続いた百人組は廃止され、新たに講武所奉行の属することになりました。所属は変わっても屋敷はもとのままでした。