江戸幕府 鉄砲組百人隊

江戸時代に現存した徳川鉄砲隊や鉄砲保存会及び鉄砲地域の紹介

5月20日(日)に東京ヴェルディ1969VS湘南ベルマーレ戦のセレモニーに、「江戸幕府 鉄砲組百人隊」が協賛出陣しました。当日は、天気もよく心地よい風が吹いてて、鎧日和のいい1日でした。

国立競技場

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他に、チアリーダーの人が練習をしていました。鉄砲隊の面々はそちらが気になっているようでした。

そりゃそうですよ!むさくるしい鎧軍団より綺麗軍団のがいいですよね!(その後の鉄砲隊打ち上げのときの、すげさんの発言より)

国立競技場2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当日の出陣編成は、大幟・馬印・鉄砲組頭・指揮与力・大目付・鉄砲同心・玉薬方・貝役・先物見・陣太鼓・後物見・黒子の総勢33名でした。

 

火縄銃試射 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午後12時5分より10分間で、3発の火縄銃の試射をしました。写真は、「腰放ち」による一斉撃ちです。

 

火縄銃試射2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たち放ち」による一斉撃ちです。このほかに、腰放ちと立ち放ち混合の「2段打ち」をしました。

トラブルもなく、大成功に終わりました。

鉄砲同心参加者ブログ

火縄銃による試射動作はこちらをご覧ください。

用意1東京ヴェルディ1969VS湘南ベルマーレ戦のセレモニーに出陣の為の準備を前日にしまいた。

(写真はクリックすると大きくなります)

 

用意2

鉄砲隊の方々が忙しい中、集合してくれました。

鉄砲同心の装備だけでも16種類はあるので、忘れないように注意しなければなりません。

 

背旗

 

背旗です。風が強い日には、大変です。

 

 

 

 

鉄砲隊ハンテン文化財の旗

鉄砲隊の半纏と鉄砲隊の幟です。

新宿区無形民俗文化財になったときに、知り合いの鉄砲隊の方から寄贈されました。

 

 

 

 

 

火縄銃1火縄銃2

鉄砲隊の命、火縄銃です。

重いのや長さなど様々な種類の火縄銃があります。

 

 

 

 

火縄銃3

火縄銃5

 

 

 

 

 

火縄銃4バサミと火皿、火蓋がみえます。

前の記事に、火縄銃の解説があります。

前回記事はこちら

 

わらじほら貝

ほら貝です。うまく吹くには、かなりの練習しないとだめです。

 

わらじです。

 

 

赤胴玉薬方

玉薬方の備品です。

 

 

 

 

 

 

江戸幕府 鉄砲組百人隊出陣のお知らせ

ひざ台はなち

 

 

 

 

 

 

 

 

5月20日(日)新宿区民デーに行なわれる、東京ヴェルディ1969VS湘南ベルマーレ戦のキックインセレモニーに出陣し、火縄銃の試射をいたします。

この日は、新宿区内在住・在学・在勤の方は、無料観戦することができます。

詳しくは、新宿区生涯学習財団HPをご覧ください。

 

 追記:出陣完了しました。

江戸幕府 鉄砲組百人隊の行列で、かつがれている火縄銃ですが、火縄銃も細かな部分がそれぞれ違ったものがあります。

戦国時代、天文12年(1543年)頃に、種子島に伝えられた火縄銃は、日本各地で作られ始めました。中でも、近江国国友村(現在は、滋賀県長浜市)、和泉国堺(現在は、大阪府堺市)は江戸時代をつうじて火縄銃が作られたところとして有名です。

それでは、火縄銃にはどのような種類があったのでしょうか。

火縄銃部分名称図

 

 

 

 

国友系

江戸時代に最大の鉄砲製造地として知られる国友村で、その系列の職人たちが製作した鉄砲をいいます。

銃口の先が八角になっており、銃口の部分を太くした柑子(こうじ)がないものが多かったようです。堺系と比べるとかざりが少ないのが特徴です。近江国日野(現在は、滋賀県蒲生郡日野町)で作られたものには、銃の台にぼたんの花や波に千鳥の飾りをはじめ、こった飾りがついていました。

堺系

堺の鉄砲は銃の台にきれいな飾りがついていたり、銃身に金や銀等をはめこんだ、象嵌(ぞうがん)があるものが多く見られます。これは、堺系の鉄砲が店頭で売られており、外観に気をくばっていたからだと言われています。

銃身は角筒(かくづつ)がほとんどで、照準をあわせる元目当(もとめあて)が富士山の形をしていました。また、柑子(こうじ)があり、銃の台をしめる胴金(どうがね)は幅が広く、他の金具と同じように彫刻が彫られていました。

滋賀県に、国友鉄砲の里資料館があります。

   国友鉄砲の里資料館HPへ

 JR総武線大久保駅北口前に 、鉄砲隊の壁画が描かれています。

2006年4月1日に日本テレビ「ぶらり途中下車の旅」に出演しました。

壁画

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

壁画2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                 北原邦明(画)

鉄砲組百人隊 出陣の儀(製作:イワン)

 江戸幕府 鉄砲組百人隊出陣の儀(ウェブリブログ)

火縄銃の構造火縄銃の構造です。(古式砲術流儀保存会研究会 八田 一 作図)

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天文12年(1543)8月25日、一隻の明国船が台風の影響により、「種子島」南端の門倉岬に漂着した。この船は、五島列島福江島を拠点に東シナ海沿岸を舞台に蜜貿易をしていた、中国出身の倭寇の大頭目「王直」(五峯ともいう)のもつ船であった。この船には3人のポルトガル商人が乗っており、彼らが手にする長い筒が「鉄砲」(火縄銃)であった。

この鉄砲に大きな関心を抱いたのが島の領主、当時16才の第14代「種子島時堯(ときたか)」。秋、正に群雄割拠の戦国時代真っ只中にあり、時堯はさっそく刀鍛冶八板金兵衛清定に命じ製作に着手。幾多の困難と研究の末、翌年には国産第1号が完成し、数十挺の模作に成功した。この技術は、泉州堺の商人・橘屋又三郎、紀州根来寺の杉の坊明算へと伝わり、全国に伝播することになった。

いち早く鉄砲の戦略的価値に注目していた織田信長は、天正3年5月「長篠の合戦」に数千挺の鉄砲隊を編成、当時最強を誇る武田騎馬軍団を撃破し圧倒的勝利を得た。この結果、戦国武将の戦術も一変し、鉄砲所持の歩兵集団が主力となるなど兵農分離が進み、一気に戦国に終わりを告げ天下統一へと加速するこになった。

当時、頻繁に日本を訪れた西洋の宣教師が、本国に残した書簡にジパング(日本)には、約30万挺の「鉄砲」が普及しており、容易には戦略が不可能であることが記され、また国内における築城方法も山城から平城へと移り変わり、16才の若者の好奇心が外国勢力を潜在的に抑止するなど、一本の筒「鉄炮」がもたらした様々な社会的現象は、戦国期の歴史の大きな転換点ともなった。      

鉄砲同心動作手順

同心動作手順

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1、火縄銃を右手に持ち、肩幅に足巾をあわせ、右足前に引金を身体の方にむけ整列する。

2、指揮与力の「タマゴメ用意」の号令で、左足を支点に右足を45度角になるように右足を1歩引く、そして、火ばさみを上げ火蓋をあける。

3、銃口(巣口)より口をつけ強く息をふきかけて、貫通しているか確認後火蓋を閉じる。

4、火縄銃を左手に持ち替えて、右手で胴乱(火薬ケース)より、火薬入れを取り出し紙のフタを口で取り、銃口より火薬を入れる。

5、口にくわえた紙を適当な大きさに切り長細くし、銃口に入れ、サクジョ棒(カルカ)にて軽く2〜3回突いて、圧力をかける。

6、今度は、火縄銃をもちあげて火皿に口火の火薬を入れる。台尻を叩きしっかりと火皿に入ったら、指で軽く押さえる。そして、火蓋を閉じて余分な火薬を息で吹き飛ばす。

7、引いていた足は、元の場所に戻し正対する。銃は台尻を右腰骨のところに位置し、銃は左首の付根と肩の間を通る角度に持って次の指示を待つ。火縄は常に左手の小指と薬指の間に持っている。

8、指揮与力の「火縄つけー」の合図により、右手で火縄をもち軽く三方向より息を吹きかけ余分な火縄かすを飛ばし、右手の親指と中指で火縄をはさみ、人指し指で上より軽く押さえ、気持ち後ろに引く感じで火縄を火ばさみにつける。

9、指揮与力の号令「立ち放ちねらえ」の合図より、左足を前に1歩だし、右ほほ骨のあたりに台尻を固定し、左手は火縄銃の自分の感覚で一番安定のする位置をもち、「立ち放ち」の姿勢をとる。

指揮与力号令「火蓋きれー」で火蓋をあける。

指揮与力号令「はなてー」で、右手人差し指を後ろに引くようにして引金を引く。(指は引金にかけてはならず、用心金の外側に置いておく。)

撃った後もその姿勢を維持し、指揮与力の合図により、姿勢を元の位置に戻す。

火縄銃の撃ち方の型としては、「立ち放ち」の他「腰放ち」、「膝台放ち」があります。

 

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